ナポレオンは1769年8月15日、父シャルル、母レティツィアの間にブオナパルテ家(フランス語の発音でボナパルト)の次男としてコルシカ島で生まれました。この頃コルシカ島では、フランスからの独立運動が繰り広げられていました。レティツィアはナポレオンをお腹に宿した身で、独立運動に参加し、時に弱気になる男性達を励まし続けながら険しい山河を進軍する勇敢な女性であったといわれています。
ナポレオンはパリの陸軍士官学校を卒業後、南仏に近いヴァランスの町に砲兵少尉として任官しました。
1789年7月14日、フランス革命勃発。しかし「自由」「平等」「友愛」の理念を掲げたフランス革命は、平和と秩序を望む民衆の願いとは裏腹に、混乱と無秩序をもたらします。周辺諸国が国境を脅かすなか、ナポレオンはイギリスに占拠されていたトゥーロン港奪還戦で勝利をおさめます。しかしその後のクーデターに巻き込まれて投獄されてからは、軍の要職から解任され生活は貧窮を極めました。
近隣諸国の反撃によりフランスが危機的状況にあることを知ったナポレオンは、わずかな部下を引き連れてエジプトを脱出しパリに帰還します。そして弱体化した政府に見切りをつけたナポレオンは執政政府を樹立し、他の二人の執政に優位する「第一執政」に就任しました。パリは湧きかえり、この30歳の若きボナパルトこそ、来るべき新世紀開幕の主人公にふさわしいと誰もが思いました。
元老院の決議により皇帝に選出されたナポレオンは、1804年12月2日、パリのノートル=ダム大聖堂で3時間に及ぶ盛大な戴冠式を行いました。しかし伝統的な式次第の進行とは異なり、教皇がナポレオンに加冠するのではなく、ナポレオン自らが冠を取り上げて被り、さらにその冠を傍らにひざまづく皇妃ジョゼフィ−ヌの頭上に載せたのです。このような行いは、自分自身の力で皇帝の座を手に入れたという強い自信の表れであるといえるでしょう。
左図のナポレオンの横顔がかたどられたブローチは、金で植物文様がデザインされたベースにルビー、エメラルド、サファイアなどさまざまな宝石がちりばめられています。
「ジョゼフ・ボナパルト
の肖像」
ロベール・ルフェーヴル
1811年
東京富士美術館蔵
「戦争の惨禍15番
もう助かる道はない」
フランシスコ・デ・ゴヤ・
イ・ルシエンテス
1892年(第2版)
東京富士美術館蔵
1814年3月31日、ついに、反ナポレオンの連合国軍がパリに入城。4月6日にフォンテーヌブロー宮で退位したナポレオンは、地中海のエルバ島へ流されました。しかし、翌年2月、島を脱出するとパリに戻って皇帝復帰を宣言。国民の熱狂的な支持を背景に奮闘するも、結局、6月のワーテルローの戦いで連合国軍に敗れ2度目の退位を余儀なくされます。
南大西洋にある絶海の孤島セント=ヘレナに幽閉されたナポレオンは、1821年5月5日、同地で、その波乱に富んだ生涯を終えることとなりました。