ナポレオンの生涯

0歳 (1769) - ナポレオン誕生

「右手に本をもって座るレティツィア」
「右手に本をもって座る
レティツィア」
アントワーヌ・ジャン・
グロの絵画に基づく
19世紀 個人蔵

「若きナポレオン像」
「若きナポレオン像」
ルイ・ロシェに基づく
制作年不詳
東京富士美術館蔵

ナポレオンは1769年8月15日、父シャルル、母レティツィアの間にブオナパルテ家(フランス語の発音でボナパルト)の次男としてコルシカ島で生まれました。この頃コルシカ島では、フランスからの独立運動が繰り広げられていました。レティツィアはナポレオンをお腹に宿した身で、独立運動に参加し、時に弱気になる男性達を励まし続けながら険しい山河を進軍する勇敢な女性であったといわれています。

19歳 (1789) - フランス革命勃発

「フランス王妃マリー=アントワネットの肖像」
「フランス王妃マリー=アントワネットの肖像」
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
18世紀
東京富士美術館蔵

「青年ボナパルトの胸像」
「青年ボナパルトの胸像」
シャルル=ルイ・コルベ
1798年
東京富士美術館蔵

ナポレオンはパリの陸軍士官学校を卒業後、南仏に近いヴァランスの町に砲兵少尉として任官しました。
1789年7月14日、フランス革命勃発。しかし「自由」「平等」「友愛」の理念を掲げたフランス革命は、平和と秩序を望む民衆の願いとは裏腹に、混乱と無秩序をもたらします。周辺諸国が国境を脅かすなか、ナポレオンはイギリスに占拠されていたトゥーロン港奪還戦で勝利をおさめます。しかしその後のクーデターに巻き込まれて投獄されてからは、軍の要職から解任され生活は貧窮を極めました。

30歳 (1799) - 第一執政就任

「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」
「サン=ベルナール
峠を越えるボナパルト」
ジャック=
ルイ・ダヴィットの工房
1805年
東京富士美術館蔵

「第一執政ボナパルト」
「第一執政ボナパルト」
アントワーヌ=ジャン・グロ
1800–1804年頃
東京富士美術館蔵

近隣諸国の反撃によりフランスが危機的状況にあることを知ったナポレオンは、わずかな部下を引き連れてエジプトを脱出しパリに帰還します。そして弱体化した政府に見切りをつけたナポレオンは執政政府を樹立し、他の二人の執政に優位する「第一執政」に就任しました。パリは湧きかえり、この30歳の若きボナパルトこそ、来るべき新世紀開幕の主人公にふさわしいと誰もが思いました。

35歳 (1804) - 戴冠式

「戴冠式の皇帝ナポレオン」
「戴冠式の皇帝
ナポレオン」
ジャック=
ルイ・ダヴィットの工房
1808年
東京富士美術館蔵

「戴冠衣装の皇帝ボナパルトの肖像」
「戴冠衣装の皇帝
ボナパルトの肖像」
アンヌ=ルイ・ジロデ=
トリオゾンと工房
19世紀初
東京富士美術館蔵

元老院の決議により皇帝に選出されたナポレオンは、1804年12月2日、パリのノートル=ダム大聖堂で3時間に及ぶ盛大な戴冠式を行いました。しかし伝統的な式次第の進行とは異なり、教皇がナポレオンに加冠するのではなく、ナポレオン自らが冠を取り上げて被り、さらにその冠を傍らにひざまづく皇妃ジョゼフィ−ヌの頭上に載せたのです。このような行いは、自分自身の力で皇帝の座を手に入れたという強い自信の表れであるといえるでしょう。

「ナポレオンのインタリオ・ブローチ」
「ナポレオンの
インタリオ・ブローチ」
グラフィス&ウェイゴール
1825年頃
東京富士美術館蔵

「皇后ジョゼフィーヌゆかりの振り子時計〈眠れぬ夜〉」
「皇后ジョゼフィーヌ
ゆかりの振り子時計
〈眠れぬ夜〉」
ピエール=
フィリップ・トミール
1809年 個人像

新しい皇帝を迎えたこの時代のフランスでは、華やかな宝飾品や工芸品が数多く制作されました。
左図のナポレオンの横顔がかたどられたブローチは、金で植物文様がデザインされたベースにルビー、エメラルド、サファイアなどさまざまな宝石がちりばめられています。

39歳 (1808) - スペイン戦争

「ジョゼフ・ボナパルトの肖像」
「ジョゼフ・ボナパルト
の肖像」
ロベール・ルフェーヴル
1811年
東京富士美術館蔵

「戦争の惨禍15番 もう助かる道はない」
「戦争の惨禍15番
もう助かる道はない」
フランシスコ・デ・ゴヤ・
イ・ルシエンテス
1892年(第2版)
東京富士美術館蔵

1808年、スペイン支配をもくろむナポレオンは、10万を越す軍隊を送り込み、兄ジョゼフをスペイン王として即位させました。しかし、このフランスの横暴に対し、スペイン各地の民衆は激しい抵抗運動を開始します。このときの凄惨な状況を目の当たりにしたゴヤは、1810年、『戦争の惨禍』に着手します。

42歳 (1811) - 嫡子誕生

「ローマ王の肖像」
「ローマ王の肖像」
マリー=フランソワ=
コンスタンス・メイエール
19世紀初期 個人蔵

1809年、帝位継承のための跡継ぎを望んだナポレオンは、嫡男のいなかった46歳の皇后ジョゼフィーヌと離婚しました。離婚に際しナポレオンは皇后の称号と身分をそのまま彼女に残し、マルメゾン宮殿、エリゼ宮殿と多額の年金を彼女に与えました。1810年4月、ナポレオンはオーストリア皇帝フランツ1世の皇女である18歳のマリー=ルイーズを宮廷に迎えます。翌年、待望の男子が誕生し、ローマ王の称号が授けられました。

46歳 (1815) - セント=ヘレナ島配流

「フォンテーヌブローでのナポレオン」
「フォンテーヌブロー
でのナポレオン」
ポール・ドラローシュと工房
19世紀前半 個人蔵

「ナポレオンのデスマスク」
「ナポレオンの
デスマスク」
リシャール、ケネル
による鋳造
1833年
東京富士美術館蔵

1812年のロシア遠征の失敗によってナポレオンの不敗神話は崩れていきます。
1814年3月31日、ついに、反ナポレオンの連合国軍がパリに入城。4月6日にフォンテーヌブロー宮で退位したナポレオンは、地中海のエルバ島へ流されました。しかし、翌年2月、島を脱出するとパリに戻って皇帝復帰を宣言。国民の熱狂的な支持を背景に奮闘するも、結局、6月のワーテルローの戦いで連合国軍に敗れ2度目の退位を余儀なくされます。
南大西洋にある絶海の孤島セント=ヘレナに幽閉されたナポレオンは、1821年5月5日、同地で、その波乱に富んだ生涯を終えることとなりました。

没後19年 (1840) - パリ凱旋

「甦る皇帝ナポレオン」
「甦る皇帝ナポレオン」
オラース・ヴェルネ
1840年 個人蔵

ナポレオン没後19年、時の国王ルイ=フィリップは、文学者や芸術家のみならず民衆のあいだでも広がりはじめたナポレオン崇拝に応えて、ナポレオンの遺骸をセント=ヘレナ島からフランスへ移して改葬することを決意しました。遺骸はパリ市内のアンヴァリッド(廃兵院)に納められ、150万人もの人々が弔問に訪れたといわれています。こうして、遺言書に「セーヌのほとり、フランス人のただ中で眠りたい」と書いたナポレオンの願いは叶えられたのです。
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