会場構成

各章の構成と主な出品作品をご紹介します。
(出品リストと展示替スケジュールは、「展示替のお知らせ」をご覧ください)

 

 

第一章
山口にいた雪舟

雪舟はその画家としての人生のほとんどを山口で過ごしました。山口は雪舟の芸術を育んだ街であり、雪舟は山口の画家です。雪舟の没後も山口には雲谷派など、雪舟の画風を慕う画家たちが絶えることなく、「雪舟流」の本場であり続けました。まずは、雲谷派の画家が写した雪舟の自画像二点などの「雪舟像」をご覧ください。五〇〇年以上の間、日本絵画に大きな影響を与えてきた「画聖」雪舟は、こんな顔をした人でした。

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第二章
これが雪舟だ

偉大な画家の絵のなかには、モニュメンタル(記念碑的)な作品というべきものがいくつかあります。ここでは四点の記念碑的大作を紹介します。
四点の絵からは、雪舟がいかに多様な画題と画面形式とに取り組んでいたかを知ることができます。さらにその制作年代も、五十〜八十歳代とさまざまです。雪舟の作品の中でも最高の高みにあるこれら四点の大作をご覧になることは、雪舟画の魅力を実感するいちばんの近道であるとともに、その画業全体への眺望を得ることにもなるでしょう。
 
慧可断臂図 雪舟等楊 一幅 齊年寺 国宝
11/1〜30に展示
慧可断臂図
面壁坐禅して全く口を開かない達磨から、なんとかしてその教えを聞き出そうとした慧可が、自分の腕を切り落として覚悟を示した、という場面。禅宗の歴史におけるもっとも緊迫した瞬間(伝説ですが)を、息苦しいほどに生々しく描き出しています。七十七歳の作。
 
四季花鳥図屏風 雪舟等楊 六曲一双 京都国立博物館 重要文化財
11/1〜30に展示
四季花鳥図屏風(右隻)
美しい花鳥を尽くした屏風は当時、めでたい席を飾るためのインテリアでした。岩壁(右隻)や雪山(左隻)などの視線を遮るモチーフを設定して閉じられた緊密な空間を作り出す手法は、雪舟が中国において学んだ最新のものです。五十歳代前半の作。
 
四季山水図巻 雪舟等楊 一巻 毛利博物館 国宝
11/1〜12に展示(13日からは毛利博物館にて展示)
四季山水図巻(部分)
十六メートルにわたる長大な画面に移り変わる四季の景色を描き、その自然の中に暮らす人々を描き出しています。この絵が描かれた文明十八年(一四八六)は、雪舟のパトロン大内氏が、自らの氏族の権威づけを行うためのさまざまな儀式が行われた特別な年でした。そんな中で、当主である大内政弘に献上されたと考えられる記念碑的な作品です。六十七歳の作。

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第三章
雪舟、変身

「雪舟」という名前は、京都から山口に来た後に使いはじめたもので、それまでは「拙宗」と名乗っていました。ここでは、「拙宗」と名乗っていた若い時期の作品から、「雪舟」と名乗り、中国に渡ってかの地で描いた作品までを中心にご覧いただきます。京都時代に身につけた大人しい画風が、だんだんと「雪舟」らしい力強さを増してゆき、そして水墨画の本場の画風を学ぶことによって、さらに大きく変身する雪舟をお確かめいただきたいと思います。

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第四章
西へ東へ

中国から帰国し、九州遍歴をへてふたたび山口に落ち着いてから、文明十八年(一四八六)に大作「四季山水図巻」を描くまでの時期は、雪舟の芸術における大きな展開期となりました。曲線的な柔らかい筆致で描かれた絵や、大和絵風の肖像画、実景を対象にしてスケッチ風に描かれたものなど、残されている作品は技法・ジャンルともにきわめて多様です。水墨画の本場・中国で受けた刺激を創作意欲のエネルギーにした、画家としての新しい挑戦の時期であったと考えられます。
 
倣高克恭山水図巻 雪舟等楊/自跋、木下俊長由来記、狩野惟信跋 一巻 山口県立美術館 重要文化財
11/1〜30に展示
倣高克恭山水図巻(部分)
中国から帰国して数年間滞在した九州で描き、弟子の雲峰等悦にお手本として与えた絵。大分の日出(ひじ)藩主木下家に伝来しました。絵の後に続く雪舟自身の文章の模写には、中国で人気のある高克恭という画家の画風にならって描いたことや、弟子への励ましの言葉が記されています。

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第五章
天開図画楼

雪舟の絵は、年をとるにつれてその個性がはっきりとしてきます。雪舟がもっとも彼らしい絵を描いたのは、中国からの帰国後。さまざまな画風上の挑戦や試行錯誤をへた七十歳を過ぎる頃からとも言えるのです。ここでは、雪舟ならではの独創的な図様で描いた晩年の人物画や、雪舟が参考にしたと考えられる中国の山水図を紹介します。中国の「お手本」と比べることにより、雪舟画の魅力が、力強い線や墨のコントラストによって作り出されているということがはっきりします。

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第六章
雪舟、逝く

ここでは、いずれも雪舟の没後に、その友人・了庵によって賛が記された作品を紹介します。なかでも、雪舟と同じく山口で活躍した禅僧で、雪舟の若い頃からの友人であった以参も賛を記している「山水図」の了庵の賛には、旧友を失った悲しみをうたった「雪舟逝く」という言葉があり、これはまさに雪舟の絶筆というべきものです。またこの絵は、晩年にいたっても変化し続け、むしろ、より大胆な、実験的ともいえる作品に挑み続けた雪舟最後の到達点を示すものです。
 
山水図 雪舟等楊/以参周省他賛 一幅 個人蔵 国宝
11/1〜30に展示
山水図(部分)
画面上部に、雪舟の友人である以参(牧松)と了庵という二人の人物による賛が記されています。了庵の賛には、「牧松は韻を遺し雪舟は逝く」とあり、雪舟の旧居「雲谷の寓舎」を訪れた了庵がこの絵を見て賛を書いた一五〇七年には、以参も雪舟も亡くなっていたことがわかる貴重な作品です。

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第七章
雪舟を継ぐ者たち

ここでは雲谷等顔(一五四七〜一六一八)、等益(一五九一〜一六四四)、等爾(一六一五〜七一)ら、桃山時代から江戸時代初期の雲谷派の画家たちが、いかに雪舟画風を受け継ぎ、発展させていったのかを紹介します。代々の雲谷派の画家たちは、等顔が拝領した「四季山水図巻」をたえず参照することによって、それぞれの作風を作り上げました。さらに、雪舟が晩年に多く描いた草体(墨の面を主とした画風)の山水図もよく描いています。

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