第六回 終焉の地
雪舟がいつ亡くなったのかははっきりしない。1502年に83歳で亡くなったという説と、1506年に87歳で亡くなったという二つの説があるが、実はいずれもさほどたしかな根拠がない。また、どこで亡くなったのかも分かっていない。亡くなる直前まで雲谷庵で活動を続けていたことはほぼ確実だが、雲谷庵において逝去したというはっきりした根拠がない。島根県の益田で没したという説、岡山県の重玄寺という寺で亡くなったという説があり、山口雲谷庵で没したという説と合わせて没地につ
いては三つの説があることになる。
没年と没地がはっきりしないからといって、雪舟の晩年が不遇であったと決めつけられるわけではない。しかし、明応9年(1500)11月、満80歳のときに弟子の宗淵に宛てて送った書状において「末世濁乱の世に存命候て無念至極に候」と書き記した雪舟の最晩年がごく安定したものであったとは思えない。
宗淵にこのような書状を送った明応9年の3月、将軍位を追われ西国を流浪していた足利義材が周防の大内義興の庇護下に入った。義材は義興の力を借りることによって京都回復を目論み、西国の諸大名に協力を要請する。これに対し幕府は義材追討令を発した。山口と大内氏をめぐる情勢は不穏であり、先行きは不透明であった。雪舟の生活にも不安が兆していただろう。
この年以降の雪舟の足跡についてはほとんど知られることがない。国宝の「天橋立図」を描いたのがこの翌年の文亀元年以降との説があるが、反論もあっていまだ決着をみていない。あるいは丹後天橋立に赴き、その帰路に益田において客死したのではないかとも考えられている。
雪舟の人生の最後を象徴する絵はやはり、了庵と牧松との賛を持つ国宝・山水図であろう。
永正四年(1507)、周防に来た雪舟の友人・了庵が雲谷庵を訪れたところ、すでに雪舟は亡くなっており、雪舟が描いた絵が一枚残されていた。そして絵の上には、雪舟と了庵との共通の友人であった牧松の詩が書かれていたのだが、その牧松もすでに亡くなっていたのである。了庵は二人の友人の死を悼み、その絵に詩を書きつけた。その詩の後半はつぎのようなものである。
「牧松韻を遺して雪舟逝く、天末の残涯に春夢驚く」
意訳してみよう。
「牧松は詩を残して亡くなり雪舟もまた逝った、私はかろうじて生き長らえているものの、儚い春の夢から醒めた思いがする」
牧松が書き残した詩も感慨深い。詩の内容から、この牧松の詩が書かれたときには、やはり雪舟はすでに亡くなっていたように思われる。どうだろうか。
「東漂西泊舟千里、北郭南涯夢一場、我もまた相い従ひて帰り去らんと欲す、青山聳ゆる処是家郷」
こちらも意訳する。
「東西に漂泊する千里の舟旅のような長い人生。南北の果てをさまよったことも今ではつかのまの夢のようだ。私もまた彼に従って帰りたい。青山のそびえるところふるさとへ」
この牧松の詩は、北宋の詩人蘇軾の詩句「是処青山可埋骨(ここ青山に骨をうずむべし)」を踏まえる。「青山可埋骨」で、「人間どこで死のうとかまわない」という意味の成語にもなっている。
こうしてみると、雪舟はやはり雲谷庵で亡くなったのではないように思われてくる。八十歳をこえた雪舟はある日雲谷庵から旅立ち、二度と帰ることなくいずこかで土に還った。