連載 東アジアを歩く

第一回 原風景

 

 岡山駅から伯備線に乗って約25分で総社駅に着く。そこからタクシーで北へ5分ほど走ると、臨済宗東福寺派の宝福寺にいたる。この地方の禅宗文化の拠点であった大きな寺だ。境内にある金亀般若院では、精進料理や湯豆腐などを堪能できる。総社観光の最重要ポイントである。
 雪舟は十歳を過ぎた頃にこの宝福寺に入って、僧としての人生をスタートさせた。「涙でねずみを描いた」という伝説も、この宝福寺でのものである。残念ながら、雪舟が縛り付けられたという柱は、天正年間の戦乱によって焼けてしまっている。
 雪舟はこの宝福寺のある総社市内の赤浜という土地で、応永27年(1420)に生まれたと伝えられている。当時赤浜にいた藤原氏という一族の出身であるとされる。この地の豪族の家柄だろう。
 「総社」とは、いくつかの神社の祭神をあわせて祀った神社を意味し、現在岡山県の南西部に位置する総社市の名は、ここに平安時代、備中国内の神々を合 祀した総社が建てられたことに由来する。この地は古代における吉備の国の中心で、数多くの古墳が残っている。奈良時代には国府、国分寺、国分尼寺がこの総社に置かれる政治の中心であった。鎌倉時代以降は、門前町・宿場町として栄えた。
 宝福寺で僧となった雪舟は、この後、いつの頃かはっきりしないものの、京都へ出る。臨済宗夢窓派(作庭で有名な夢窓楚石を祖とする)の大本山である相国寺に入るのである。相国寺は、「五山」という禅寺として最高の公的な格式を誇る。足利義満が開いた寺であり、将軍家直属の禅寺という性格も持っている。
 雪舟はこの相国寺で、春林周藤という師について修行した。このことは、雪舟の友人たちが残した文章にも明記されており、間違いない事実なのであるが、実はちょっと不審な点もある。総社の宝福寺は東福寺系の寺であった。この宝福寺から京都の大寺に移るならば、普通東福寺に入るはずなのである。
 相国寺には、当時もっとも盛名高かった画僧の周文がいた。東福寺にも、雪舟より一世代より少し前くらいに、明兆という大画家がいた。画風の上では、雪舟は相国寺の周文、東福寺の明兆のいずれからも影響を受けている。雪舟は周文を慕って、通常のルートを曲げて東福寺ではなく相国寺を選んだのか。あるいはいったん東福寺に入った後に、より新しい流行の画風を学ぼうとして相国寺に移ったのかもしれない。この辺りの雪舟の動きについては、いまだよく分かっていない。

30歳代の半ばになって、雪舟は京都から山口に向かう。画家として京都で成功しなかったからとも言われる。それはどうだったろうか。当時の山口は、中国・朝鮮との交易をさかんに行い、強大な経済力を有する大内氏によって支配されており、国内有数の大都市であった。現在の感覚でいえば、北京から上海に移る、あるいはニューヨークからロサンジェルスに移る、といった感じではなかったか。いずれにせよ、雪舟にとって山口は新たな可能性そのものであったはずである。

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