連載 東アジアを歩く

第二回 南遊

 

 1467年、48歳であった雪舟にとって人生最大の転機が訪れた。応仁の乱の開始によって日本全体が激動の時代に入ったこの年、雪舟は大内氏が組織した遣明船に乗って中国(当時の明国)に渡ったのだ。中国は水墨画の本場である。憧れの大画家の絵をこの目で確かめ、本場の画壇の最新の流行にふれる絶好のチャンスが到来したのである。

 明に向かう船団は、博多から五島列島の奈留湾に集まり、ここから明へ出航する。明への船旅は、順調にいけば10日ほどの航海である。中国本土ではじめて落ち着く場所は寧波という都市。ここで遣明使一行は、北京への上京の許可を得るための手続きを待つ。その間、中国側の役人からの接待があったりする。ある時の遣明使に加わった人物の一人が、そうした接待の席に巨大な西湖図(西湖は杭州の有名な名勝)が掛けられていたことを記録している。雪舟もこうした席に加わり、日本では目にすることのできなかったような中国画を鑑賞する機会を得たことだろう。

 寧波は日明貿易の拠点であり、その地の人々も日本人との交流には慣れている。雪舟もこの地の文化人たちとの交流を楽しんだようだ。寧波の文化人の一人であった徐璉という人物が、雪舟が帰国する際に送別の詩を送ったりしている。後に寧波を訪れた日本人が、中国人の家に雪舟の絵が飾ってあったことを記録しているから、雪舟が寧波の友人に絵を描き与えていたこともはっきり分かる。またこの寧波滞在中、雪舟は天童景徳寺という寺を訪れ、そこで「首座」という称号を得る。儀礼的なものだったろうが、雪舟は誇りに感じたであろう。帰国後も、しばしば絵の中に「天童第一座」と記した。

 寧波から北京までの交通は大運河による。ほぼ二ヶ月かかる。北京に到着すると、朝貢の儀式など気の張ることが多くなる。この北京滞在中、雪舟に大きな晴れ舞台が与えられた。礼部院という役所の壁に絵を描くよう依頼されたのだ。その出来映えは、かの地の人をも十分に納得させるに足るものであったようで、賞賛の言葉を得たことが伝えられている。一説に、この時に雪舟が描いたのは壁画ではなく、掛け軸を描いてそれを壁に掛けたのではないかともいう。そし て、その絵が現在、東京国立博物館に所蔵される「四季山水図」である可能性も考えられるのではないかという。

 北京でのすべての用務が終わると、往路とは逆コースで寧波に向かう。仕事帰りであるから気楽である。観光気分で名所を見る余裕も生まれる。この北京からの帰路に見られる風景を描いた絵が「唐土勝景図巻」(京都国立博物館蔵)だ。鎮江の金山という名所や、蘇州近くの宝帯橋という長いことで有名な石橋などを描いている。すべてが実際の風景からのスケッチというわけではなく、おそらく参考となる何らかの絵図があったのだろう。またこの絵は単なる名所絵ではなく、雪舟の絵による入明報告書とみなすことができるだろう。

 1469年の6月頃、雪舟は寧波を発った。帰国した雪舟を待ち受けていたのは、いつ終わるともしれぬ戦乱のただ中にある祖国であった。

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