連載 東アジアを歩く

第三回 九州

 

 雪舟を乗せた船が寧波を発ったのは文明元年(1469)の6月頃のことであったようである。それから一月もしないうちに、船は日本に帰ることができただろう。二年半以上にわたった中国滞在を終え、日本の土を踏んだ遣明使一行の安堵の大きさは想像にかたくない。

 しかし、久しぶりの祖国は戦乱のただ中にあった。彼らが中国に向かった年に始まった応仁の乱は、まったく収まる気配を見せなかった。
 応仁の乱とは、足利将軍家の管領(将軍の補佐役、今でいえば官房長官のようなものか)であった畠山・斯波両家の家督相続の問題をきっかけとして、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが諸大名をひきいれて争った戦争である。このいくさは11年間にわたって続き、この間に京都は戦乱の巷となり甚大な被害を受けた。大内氏は西軍に加わり、雪舟のパトロン大内政弘は、京都へ出陣したままであった。
 戦禍は京都にとどまらず、地方へも飛び火した。雪舟たちが帰国した1469年には、豊後(現在の大分県)守護の大友親繁が東軍に加わり、大内政弘の留守をついて北九州における政弘の支配地を攻撃した。九州も大乱の渦中に入った。
 このような国内情勢を受けて、遣明使の一行も帰国後順調にはそれぞれの国に戻ることができなかった。誰もが、自分の身の安全を確保することさえ容易でなかった。幕府船・細川船・大内船を主体とする遣明船のそれぞれが、どのようなルートによって日本のどこに戻ったのか、はっきりしたことは分かっていない。雪舟の乗っていた大内船が、どこに着岸したのかもよく分からない。
 そして、帰国後の雪舟の動向はこれからほぼ十年の間、どうもよく分からないのである。帰国からの十年間は、雪舟はほとんど、あるいはまったく山口に戻っていないようである。

 ひとつだけはっきりしている事実は、文明8年(1476)には大分におり、「天開図画楼」というアトリエに落ち着いて、絵を描いていたということである。この年、大分の大野町というところにある鎮田滝の実景を描いている。原本は関東大震災で焼けてしまったが、江戸時代に作られた模本が京都の国立博物館に所蔵されている。
 しかし、雪舟が大分にずっといたのか、それとも二、三年くらいの滞在であったのか、その辺りのことも不明だ。またなぜ大分なのかという理由も分かっていない。大内氏と敵対関係にあった大友氏の内情を探るためとも推測されているが、はっきりしない。この時期は、雪舟の人生における謎の十年だ。

 文明11年(1479)頃には、石見国(島根県)益田の豪族である益田兼堯の肖像を描いている。この時までには山口に戻っていたと考えてよいだろう。この二年前の文明9年(1477)の11月に、大内政弘は京都から山口に帰り、応仁の乱が終息している。雪舟が山口にもどったのが、この政弘の帰国と無関係であったとは考えにくい。山口に帰った政弘が、ふたたび雪舟を呼び戻したと考えるのが自然だろう。
 雪舟にとっては、また山口で、政弘のもとで絵を描く生活にやっともどれるようになったわけだ。1477年には雪舟は58歳。現在ならば定年間近という年ごろであるが、雪舟の画業全体から見ると、実はこれから後がもっとも充実した作品を量産する時期なのである。

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