連載 東アジアを歩く

第四回 東遊

 

 雪舟が61歳の年である文明12年(1480)、京都・東福寺の僧・季弘大叔が、雪舟が描いた山口の医師・安世永全の肖像画に賛を加えた。雪舟はこの前年頃に、石見(島根県)益田の豪族・益田兼堯の肖像を描いている。応仁の乱が終結し、大内政弘が京都を退去して山口に戻ったのが文明9年(1477)である。

 明から帰国して後、すぐに山口には戻らず、一時大分に居たことが分かる程度で、どこで何をしていたのかはっきりしない雪舟も、1470年代の末には再び山口に帰っていたようだ。
 しかし、雪舟は山口にじっくりと腰を落ち着けて画業に専念する、というわけにはいかなかった。文明13年(1481)の秋には、雪舟は今度は美濃(岐阜県)に現れる。
 美濃の守護大名・土岐氏の城があった革手(岐阜市)に位置する正法寺において、旧知の還俗僧・萬里集九と再会し、集九にさまざまな絵を描き与えたことが記録されているのだ。岐阜からまた、加賀(石川県)や越後(新潟県)にも向かい、さらに駿河(静岡県)、鎌倉にも足を伸ばした可能性も考えられている。

 当時、中国行きのことを「南遊」(中国は日本の南方にあるので)と表現することがあった。西の山口から東方へ向かう旅は「東遊」と言われた。
 加賀や越後などでの雪舟の動向は、それほど詳しいことが知られないが、美濃での行動についてはある程度分かっている。萬里集九が雪舟との再会の様子をかなり詳しく記した文章があり、また春岳寿崇という正法寺の僧が建てた「楊岐庵」という庵を描いた絵(の模本)が残っているからだ。
 雪舟は、萬里集九に自分の中国旅行の経験談を話し、中国で買ってきた紙を取り出して、かの地の名所である金山寺の絵を描いてみせたという。そして、その絵を前にして金山寺がどのような場所であったか、こと細かに語り聞かせている。

 昔も今も、人のすることはあまり変わらない。現在でも、海外旅行から帰ると、撮ってきた写真を友人に見せ、土地の様子や自分の経験を友人に語って聞かせることは楽しいものである(とくに話す側にとっては)。当時、中国行きはそうそう体験できることではなかったから、その経験談は多くの人に歓迎されもしただろう。
 こうした雪舟の美濃行きについて、これまでは単に「雪舟は美濃に旅行した」と簡単に考えられていた。加賀や越後行きも含めると、「美濃から加賀、越後へと大旅行をした」と考えるだけだった。現在の我々の観光旅行と似たようなもの、もしくは、芸術家が自らの制作のインスピレーションを得るための「漂泊」とされていた。
 ところが最近は、少し違った解釈が与えられるようになってきた。美濃に行くにしても、何か政治的な目的があってのことだと考えられるようになった。
 当時の美濃には、日野富子によって将軍の座を追われた足利義視が、応仁の乱で大内氏とともに西軍についた土岐氏の庇護を受けて滞在していた。この土岐氏および足利義視の動静は、大内氏にとって重大な関心事である。
 さらに、文明12年には、守護の土岐氏、守護代の斎藤氏それぞれの家で、家督相続を原因とする紛争が起こった。争いは翌文明13年の夏に終わり、結果としては、土岐氏は土岐成頼から政房へ、斎藤氏は斎藤妙椿から妙純へと代替わりした。そしてその直後、文明13年の秋に雪舟が美濃に現れる。
 美濃における紛争の噂は、ほとんどリアル・タイムに大内氏の耳にも入っていただろう。ただし、情勢の詳細まではつかめない。それで雪舟が、大内氏によって情報収集のための美濃行きを命じられたのではないかと考えられるのだ。
 権力者に対してこのような形で奉仕することは、当時の一部の禅僧あるいは文化人にとって特殊なことではなかった。雪舟が特別に変わった仕事に携わっていたわけではない。大きな危険を伴わない場合、それほど嫌な仕事でもなかったのではないか。ただし、画家としての雪舟がこの東遊によって大きく変化したということもなかったようだ。美濃に向かう前に京都に寄った、あるいは美濃から加賀をへて京都に向かったとも考えられており、その場合、都の画壇の様子を窺えたことが雪舟にとっての収穫になっただろうか。

 雪舟がふたたび山口に戻った時期はよく分からない。早ければ文明14年(1482)に、もっとも遅くとも文明18年(1486)には山口に帰っている。

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