連載 東アジアを歩く

第五回 山口

 

 文明18年(1486)の6月、東福寺の住持もつとめた高僧である了庵桂悟が山口を訪れた。二人はこのときが初対面であったようだが、終生の友となった。この年了庵は62歳。雪舟は67歳であった。雪舟は自分の住まいに「天開図画楼」と名付けていたが、了庵に頼みこの名前にちなむ一文を書いてもらった。それが「天開図画楼記」という文章となって残った。中国から帰国した後に、一時大分に居たときの住まいも「天開図画楼」で、このときは呆夫良心という友人に文章を頼み、そちらも「天開図画楼記」と題されていた。「天開図画」とは、「天の描き出す絵画」つまり美しい自然を意味する。
 了庵のこの「天開図画楼記」は、雪舟の住まいについて「土地は小さいが、高台の清々しい場所にあり、当主の大内政弘もしばしばここを訪ねた」と記している。この「天開図画楼」が、現在の雲谷庵の位置(山口市天花)にあったものかどうかは定かでないが、いま雲谷庵がある場所も高台であることに違いはない。庵の裏には清水が湧き出ており、清々しい場所であることも確かだ。

 「四季山水図巻」(毛利博物館蔵)と「三十三観音図」(原本逸失)というふたつの記念碑的な作品を制作したこの1486年以降の山口における雪舟の生活は、その生涯の中でも最も安定した時期であったようだ。画家としての知名度も高まり、弟子も増えた。延徳2年(1490)には、弟子の一人秋月に自画像を描き与えているが、そこに見られる雪舟の表情にはまったく翳りが感じられない。この安定を支えていたのが、当主大内政弘との良好な関係であっただろうことも容易に想像できる。
 その政弘が知命(五十歳)にて没したのが明応4年(1495)。これは雪舟にとって少なからぬ打撃であったのではないか。家督を継いだ義興はまだ19歳の若さであり、さほど頼みとはならなかったであろう。
 この年の3月に、雪舟は弟子の宗淵に「山水図」(東京国立博物館蔵)を描き与え、絵の上に長文の序を記した政弘が没したのはこの年の9月であったが、前年の秋には病状の悪化によってすでに義興に家督を譲っている。「山水図」を描き序文を記したときの雪舟の心中は、果たしてどのようなものであったのか。政弘の死を予感し、不安を抱いていたのだろうか。あるいは未だそのような不安はまったく生じていなかったのだろうか。
 いずれにせよ、政弘の没後、雪舟の生活の安定も揺らぎはじめるように思われる。

 明応9年(1500)11月には、「山水図」を描き与えた宗淵から届いた手紙に対して返書を送った。それが、現存する唯一の雪舟直筆の手紙「宗淵宛書状」(梅澤記念館蔵)である。弟子の暮らしぶりに気を遣い、また機会があれば山口に会いにきて欲しいと訴えるこの手紙の末尾近くにある「末世濁乱の世に存命候て無念至極に候」という言葉は、いかにも悲痛だ。それは最晩年の不遇を象徴しているかのようである。雪舟はこの年満八十歳を迎えた。

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