第一章 運慶と運慶之一流

作者不詳 金剛力士像 13世紀(福岡・大興善寺)
作者不詳 金剛力士像
13世紀(福岡・大興善寺)

運慶とその一門である「運慶流」は、鎌倉時代の幕開けとともに一躍歴史の表舞台に躍り出た。新時代にふさわしく、その造形は豪快で力強いものであるが、それと同時に繊細で端正な一面をもあわせ持っていた。第一章では、運慶流に脈々と受け継がれているその独自のスタイルを、四代湛康から初代運慶、そして父の康慶まで、約一世紀にわたって世代をさかのぼりながら紹介する。

(四代)湛康作 持国天像 1294(佐賀・円通寺)
(四代)湛康作 持国天像
1294(佐賀・円通寺)

運慶と西国

蒙古襲来の時代

運慶の没年(1223)から半世紀。文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の二度にわたる蒙古襲来(元寇)は、未曾有の国難として日本を揺るがした。危機に直面した西国の武士たちは幕府草創期の奥州征伐における戦勝祈願に範をもとめ、かつて造られ見事その霊力を発揮した運慶仏をいま再びと望んだ。その期待に応えたのが、運慶四代と目される当代一流の仏師湛康である。運慶独特の力強さを受け継いだそのスタイルは、この地における、その後の運慶流繁栄の基礎を築くこととなった。

(四代)湛康作 薬師如来像 1294(佐賀・三岳寺)
(四代)湛康作 薬師如来像
1294(佐賀・三岳寺)

圧倒的な存在感

運慶四代湛康

三岳寺の薬師・大日・十一面観音像のみどころは、圧倒的な肉体の量感である。それぞれの像を横から見ると、頭部の大きさ、胸板の厚みに驚かされる。人の姿をかりつつも、それを遥かにこえた存在感がみなぎっており、その圧倒的な量感から生じる霊威こそが、光得寺大日如来像をはじめとする運慶の仏像を髣髴とさせる。この像が造られた永仁二年(1294)は、三度目の蒙古襲来が現実味を帯び西国は極度の緊張状態にあった。異国退散祈願の仏として期待されたことは想像に難くない。

(三代)康円作 愛染明王 1275(京都・神護寺)
(三代)康円作 愛染明王
1275(京都・神護寺)

(二代)作者不詳 釈迦如来 13世紀(佐賀・東妙寺)
(二代)作者不詳 釈迦如来
13世紀(佐賀・東妙寺)

穏やか・端正

もう一つの運慶スタイル

四代湛康の仏像が持つ力強さとは対照的に、三代康円や二代湛慶の世代の運慶流仏師には、穏やかで端正な造りの仏像が目立つ。承久の乱(1221)をへて落ち着きを見せてきた都では、こうしたタイプの仏が好まれ、力強く量感のあるスタイルはあまり流行しなかった。時代によって様々なスタイルを見せる「運慶流」の多様性は、もともとは、「力強さ」と「端正さ」という相反するスタイルを同時に内包していた運慶の作風に由来する。

(初代)運慶作 大日如来 12世紀(栃木・光得寺)
(初代)運慶作 大日如来
12世紀(栃木・光得寺)
写真提供:東京国立博物館、
Image:TNM Image Archives Source
http://TnmArchives.jp

運慶のめざしたもの

写実を超えた迫真性

鎌倉時代の仏像はしばしば写実的だといわれる。とはいえ、運慶の仏像が必ずしも写実的であるというわけではない。光得寺大日如来像の、特に、背中から腰にかけてのボディラインは、写実的な人体表現からはみ出して不自然なまでに肥満している。しかし、運慶はこのように像の奥行を深くすることによって、立体感を強調し、仏として威厳のある姿に造りあげたのである。運慶がめざしたものは、写実的表現を崩してこそ伝わる「迫真性」である。

光得寺大日如来像 X線写真(撮影:田口榮一)
光得寺大日如来像
X線写真(撮影:田口榮一)

仏に魂をこめる

光得寺大日如来像のX線写真からは、運慶作の仏像に共通する納入品や構造が確認できる。なかでも注目すべきものが「心月輪(しんがちりん)」という仏の魂を意味する水晶玉である。運慶が、像内にこの「心月輪」を込めることによって、仏像は単なる彫刻から、神聖な存在へと変わるのである。これは「仏像に魂をこめる」という強い意識のあらわれである。このような仏像に対する姿勢が運慶独特の存在感・実在感ある仏像を生み出したと考えられる。